2023.9.1
1923年9月1日、東京都や神奈川県を中心に壮絶な被害をもたらした「関東大震災」を引き起こした大正関東地震が発生しました。この震災では、実に14万人以上の命が失われるという、日本の近代史上でも最も破壊的な災害として記録されています。
関東大震災から、9月1日で100年の節目を迎えます。100年が経過する今、その節目の年を迎えることは非常に意義深いものとなっています。今日の都市開発や防災対策においても、関東大震災の教訓は深く反映されており、その記憶と教えを常に心に留め、再び同じ被害を繰り返さないための指針として活用されています。今後起こりうる災害に備えて防災意識を高めるために、EPRCでも特集を組むことといたしました。
地震発生時刻 1923年(大正12年)9月1日 午前11時58分
震央地 神奈川県西部
深さ 23km
規模 M7.9
最大震度 6(※当時 現在に置き換えると7相当)
津波の高さ 最大12m(熱海)早いところでは5分で到達
関東地方の地下は3枚のプレートから構成される複雑な構造をしています(図1)。関東地震は、関東地方から沖縄に潜り込んでいるフィリピン海プレートと、北海道から関東地方までの大陸プレートである北米プレートの境界面で発生したプレート境界型地震です(図2)。震源域は神奈川県~千葉県までの長さ100km以上、幅50km以上の範囲で、境界面が数mずれたと考えられています。東京での大火災の壮絶な被害から、「東京の地震」と思われがちですが、実際には神奈川県から千葉県南部にかけて1995年 阪神・淡路大震災の際の10倍以上の範囲で震度7や震度6強が観測されていました(図3)。
24時間以内にM7.0を超える地震が2回発生しました。地震活動は特に年末まで活発で、震源域やその周辺でM6以上の地震が3カ月間という短い期間に24回発生しました。
死者 105,385人
全潰全焼流出家屋 293,387棟
多数の水力発電所や火力発電所、送電線や変電所が被害を受けました。
再開:電力 9月5日、都市ガス 9月末(完全復旧は年末)、上下水道 9月4日(全域通水完了11月20日)
鉄道も大きな被害を受け、全線開通まで1年半を要した区間もあったと記録されています。
災害発生時の指定避難場所がなかったため、人々は火の発生場所や風の流れ、他の人々の動きを考慮しながら、上野公園や皇居などの広い場所へと避難していたと言われています。しかし、そのような避難先で、持参した家具や放射熱の影響で別の火災が起き、多数の命が失われたケースもあったようです(現在の墨田区の被服工場跡地が一例)。炊き出しや避難場所の設置は、住民が互いに協力して行われました。また、当時ラジオ放送はまだ開始されていなかった(関東大震災の2年後に始まる)ので、情報の伝達方法が限定されていました。その結果、証拠のない噂が拡散し、それが事件に至るような状況も生じていました。
地震発生後、それに続く火災が壮絶な被害をもたらしました。明治維新以降、東京では防火対策が進められ、当時の警視庁消防部も最新の技術を用いていました。しかし、地震直後から発生した火災は、46時間続き、市域の43.6%にあたる34.7㎢を焼失。多くの人々が命を落としました。
この火災が特に破壊的だった理由の一つが、火災旋風の発生です。火災旋風は強風が人や物を舞い上げ、火の粉を遠くに飛ばして火災を拡大させる現象で、その動きは予測不能です。横網町公園(当時は陸軍被服本廠の跡地)に避難してきた人々もこの火災旋風により、逃げ場を失いました。旋風によって、人や荷車、石やレンガまでもが空中に巻き上げられ、避難していた約38,000人が命を失いました。
研究機関や大学では火災旋風の発生メカニズムについて研究が進められていますが、完全に解明されていない状況です。
また、この一連の火災原因には不明な点や不審な点が多く、大正関東大地震の火災発生場所と1855年安政江戸地震の火災場所が類似していることや、夜間に発生した安政江戸地震の際には「地中からの自然発火」に関する報告が複数存在することから、江戸川区や江東区の地下に確認されているメタンガス溜まりが地震により地上に吹き出し、これに着火したことによりこれほどまで火災が長時間に及び広がったのではないかとの説もあります。
震源が相模湾にあったため、三浦半島から伊豆半島の東海岸に至る範囲で数m以上の高さの津波が発生しました。特に注目すべきは、静岡県の熱海での津波高が12mにも達したことです。このような高さの津波は非常に破壊的で、通常は多くの被害をもたらします。しかし、過去の災害、特に1703年の元禄地震や1854年の安政東海地震から得られた教訓が、伊豆半島の一部地域で有効に活用されました。これらの地震とそれに続く津波によって地域社会は大きな被害を受けた過去があり、その教訓が適切な避難行動の形成につながっていました。結果として、家屋は多数流される被害を受けましたが、人々は速やかに避難し、人的被害は最小限に抑えられたようです。
地震による強い揺れによって、地滑りや多くの土砂災害が発生しました。多発した理由としては強い揺れが主因ですが、前日にかなりの降雨があったことも一因とされています。また、神奈川県 伊勢原市大山(旧中郡大山町)では地震の際に堆積した土砂が、地震発生後の9月12~15日の集中豪雨により土石流となって一気に流れ下り大きな被害を出しました。
この耐震規定は戦後の「建築基準法」(1950年)に受け継がれ、その後の大きな震災を経るごとに強化されています。(1971年、1981年、2000年)当時は旧来の木造建築、明治以降のレンガ造建築、外国の建設会社がかかわった高層ビル、日本独自の耐震建築など、耐震構造化が考慮された建築物とそうでないものが混在した状態でした。その中で被害はレンガ造、木造及び耐震構造化を考慮していない外国流のビルに多く発生し、日本流の耐震建築には少なかったとされています。
科学的に追求する重要性が認識されて、東京帝国大学に地震研究所が設立されるなど、高度な地震観測の整備が進みました。
当時は体感による観測でしたが、 1950年代から地震計による観測が開始され、 1996年に体感による観測を廃止されました。震度階級は時代とともに階級数が増えていき、現在は10段階ですが当時は7段階評価でした。
関東地震の前兆に関しては、Rikitake(1986)に詳細にまとめられていますので、その情報を元に表を作成しました。100年前ということもあり、機械的に観測されたデータや集計された統計情報などが乏しく、地殻変動や地震活動、地電流以外は人々の体感による報告が主体となっています。尚、この報告は全体の一部を抜粋したものであり、前兆種別の割合や前兆が多く現れた地域などを推定できるものではないことに留意ください。
種別 | 観測地 | 震央距離(km) | 先行期間 | 内容 |
---|---|---|---|---|
地殻変動 | 南関東 | 30 | 30年 | 北北西-南南東方向の収縮を伴う異常なひずみが約30年前に発生し、地震時に収縮が逆転 |
三鷹(東京) | 60 | 3年 | 国立天文台の施設のひし形面積の異常な増加 | |
本郷(東京) | 70 | 8時間 | 東京帝国大学の大森式水平振り子地震計は現地時間1923年9月1日午前4時頃から急激な西傾を記録した。同日11時58分に関東地震が発生した。 | |
油壷(神奈川) | 18 | 2年 | 観測の開始以来、三崎の地面は平均1cm/年の速度で沈降していたが、1921年以来、地面は3cm/年の速度で隆起する傾向があった。 | |
潮位 | 房総半島南部と三浦半島 | 20~50 | 60~70年 | 60~70年前から海岸の沈下が観察されていた。海岸沿いの道路が冠水する箇所も多数あった。期間中の沈下量は房総で80cm、三浦半島で50cmとみられる。 |
館山(千葉) | 42 | 1~2年 | 海面の高さは地震の1〜2年前から増加し、海岸沿いの家の生け垣にほぼ達した。 | |
荒崎(神奈川) | 18 | 15~16ヶ月 | 1920年5月〜6月頃から海面の高さが20cmほど上昇 | |
銚子(千葉) | 145 | 8ヶ月 | 海面が昨年の5~7月より21cm高く、地震の直前に30cm近く高くなった。 | |
飯岡(千葉) | 135 | 8か月 | 海水位は非常に高く、九十九里浜ではいつもの場所に海水浴客のための小屋を建てることができなかった。 | |
油壷(神奈川) | 18 | 2ヶ月 | 7~8月にかけて、三崎の海面は14cm下がった。そこの地面は7月から8月に少なくとも8cm上昇した。 | |
横須賀(神奈川) | 29 | 7.5時間 | 横須賀海軍造船所の潮汐計は、現地時間4時30分から異常なのこぎり歯の変化を記録し始めた。 | |
地震活動 | 関東地方 | - | 10~20年 | 関東地方で地震活動が活発だった。 |
関東地方 | - | 2年 | 本震から100km以内で発生した中規模地震(M5以上)の震源が、本震の震源に向かって移動する傾向があることを指摘した。 | |
和歌山 | 400 | 1500日 | 和歌山県の地震の数が増加し始めた。 | |
相模湾 | 0 | 3.5ヶ月 | 5月~8月20日の間に、相模湾で頻繁に地震があった。 | |
本郷(東京) | 72 | 25、15、8日 | 東京帝国大学での観察によると、8月7日、17日、24日に震源地の近くで無感地震 | |
横須賀(神奈川) | 30 | 7、4,2日 | 8月25日、28日、30日に小さい揺れがあった。 | |
地電流 | 仙台(宮城) | 350 | 数時間 | 地中に埋められた 2 つの電極間の地電位の異常な乱れが観察された。 |
地鳴り | 湘南(神奈川) | 20 | - | 湘南沖で数回地鳴りが聞こえ、漁獲量が減少したと報告されている。 |
三浦半島(神奈川) | 25 | 1~2日 | 三浦半島沖で地鳴りが聞こえた。 | |
品川(東京) | 60 | 直前 | 「ゴー」という地鳴りが聞こえた。 | |
君津(千葉) | 50 | 3~5秒 | 飛行機のプロペラのような轟音や銃の発砲音が聞こえた。 | |
佐貫(千葉) | 45 | 3~4秒 | 電車の走行音のような地鳴りが聞こえた。音は南西6方向から聞こえた。 | |
湊(千葉) | 42 | 直前 | 飛行機の推進音のような地鳴りが鳴り響き、南南西方向から聞こえた。 | |
本所(東京) | 70 | 直前 | 地面から嵐のような奇妙な音が聞こえた。 | |
地下水 | 山中湖(山梨) | 60 | 3ヶ月 | 中野村村長天野氏によれば、山中湖は大正12年5月から6月にかけて濁り始めた。湖に流れ込む川はなく、湖底から水が湧き出ている。 |
伊豆長岡(静岡) | 46 | - | 地震前は井戸水が白くなっていた。地震の後、泥水になりました。 | |
品川(東京) | 60 | 2~3ヶ月 | 仏教寺院の井戸の水が異臭を放ち始めた。地震後徐々に明らかになってきた。しかし、寺院前の井戸にはそのような変化はみられなかった。 | |
伊勢原(神奈川) | 30 | 2ヶ月 | 太田村の井戸の水位が2ヶ月前から低下した。地震後は復旧した。 | |
秦野(神奈川) | 33 | - | 秦野村の井戸の水位が低下した。正確な日付は不明 | |
亀戸(東京) | 60 | - | 同上 | |
滝野川(東京) | 70 | - | 井戸水が濁って使えなくなった。正確な日付は不明 | |
品川(東京) | 60 | 36日 | 品川区内にある複数の井戸の井戸水が7月末にかけて枯渇したことが専門家の調査で判明した。このような井戸水の異常な変化は、1855年の安政江戸地震以前にも観察されていた。井戸は7月27日に完全に干上がった。 | |
横浜(神奈川) | 42 | 5-6日 | 横浜の川でたくさんの魚が浮かんで死んでいた。川の水が濁っていた。 | |
静岡市(静岡) | 97 | 2-3日 | 静岡市の知事公邸の井戸水が濁った。 | |
温泉 | 熱海(静岡) | 33 | 8ヶ月 | 間欠泉が1922年12月20日に噴出を停止した。 |
伊豆長岡(静岡) | 46 | 7日 | 北泉は地震1週間前から湯量が減少し、震災後は増加した。一方,南泉では地震後に減少した。 | |
熱海(静岡) | 33 | 1日 | 通常の間欠泉の噴出時間は5~20分間であるのに対し、8月31日には40分間にわたって熱水が噴出した。 | |
箱根 (神奈川) | 36 | 6時間 | 9月1日午前6時、堂ヶ島のホテルの温泉水が濁った。 | |
箱根(神奈川) | 33 | 6時間 | 9月1日朝、塔之澤の温泉水が濁った。 | |
伊豆山(静岡) | 32 | 3時間 | 伊豆山温泉の温度が非常に高くなって誰も入浴できなくなった。 | |
伊東(静岡) | 34 | 3時間 | 9月1日朝に温泉の湧出量が増加 | |
動物 | ||||
–哺乳類 | 品川(東京) | 60 | 4日 | ネズミがいなくなった。 |
長崎(東京) | 71 | 2日 | ネズミが家から逃げ出した。 | |
神田(東京)70km | 70 | 3時間 | 40匹のラットを一度に捕獲した。 | |
–魚類 | 八王子(東京) | 60 | 5日 | 多摩川でアユが大漁 |
酒匂川(静岡) | 20-40 | 1日 | アユ大漁 | |
荒川(東京) | 60-110 | 1日 | アユの大漁 | |
相模川(神奈川) | 30 | 2時間 | アユやウグイがたくさん釣れました。 | |
横浜(神奈川) | 42 | 1日 | イワシは群れで入港してきた。 | |
鴨川沖(千葉) | 64 | - | イワシの漁獲量が多い。地震後は漁獲がなかった。 | |
多摩(東京) | 56 | 1ヶ月 | 例年ならほぼ干上がっていた小川にもウナギやウグイがたくさん現れた。 | |
神流川(群馬県) | 120 | - | 驚くほど多くのウナギが石の穴から頭を出していました。 | |
姉ヶ崎(千葉) | 68 | - | ため池のウナギが地震前に全ていなくなった。 | |
鎌倉(神奈川) | 23 | 1週間 | 鎌倉の海岸でたくさんのエビが見つかった。 | |
相模湾 | 0 | - | 相模湾の漁獲量が少なかった。遠洋ではカツオもマグロも現れなかった。 | |
沖ノ島(千葉) | 35 | 2時間 | カツオが大漁 | |
横浜(神奈川) | 42 | 1-2日 | たくさんのカニが陸に向かって移動していた。 | |
川崎(神奈川) | 55 | 1ヶ月 | ナマズの異常繁殖 | |
向島(東京) | 74 | 2-3日 | 文部副大臣の赤司氏は、地震の直前、東京の下町の池でたくさんのナマズが飛び跳ねているのを目撃した。ここ数日魚の活性が上がっているとの報告があった | |
- | - | 1日 | 画家の岸波氏は、スケッチのために大きな鉢にナマズを入れました。彼は魚が動きを止めなかったので不思議だった。 | |
鵠沼(神奈川) | 21 | 1日 | 文部省建築主任 柴垣達也氏が投網したところ、体長30cmのナマズ3尾がかかった。 | |
川口(埼玉) | 80 | - | ナマズは震災の年にだけ異常に繁殖した。 | |
鎌倉(神奈川) | 23 | 1週間 | 鎌倉の海岸でハゼがたくさん見つかった。 | |
金華山沖(宮城県) | 400 | 98日 | 季節外れのハモの漁獲 | |
山中湖 | 60 | 1日 | フナ大漁. | |
蒲田(東京) | 55 | 1日 | 池でフナがたくさん釣れた。 | |
千住(東京) | 75 | 4~5時間 | 千住の池に鯉とフナが浮かんだ。 | |
伊豆山(静岡) | 30 | 1日 | 熱海付近では真鯛、ボラ、スズキが多く捕獲された。 | |
鶴見(神奈川) | 50 | 1日 | ボラが水面に浮かんだ。 | |
石巻(宮城県) | 400 | 18時間 | 無数のボラが川を遡っていきました。 | |
葉山(神奈川) | 20 | 数日 | ベルギー大使によると、おそらく深海魚の一種である透明な、大根のような魚が海面に浮かんだ。 | |
伊豆(静岡) | 30 | 数日 | 伊豆の漁師たちは「シゲ」と呼ばれる深海魚が海面に浮上しているのを目撃した。 | |
小田原(神奈川) | 28 | - | 小田原の海岸に深海魚が現れた。 | |
相模湾 | 0 | 6時間 | 深海魚の死骸が海面にたくさん浮かんでいた。 | |
東京近郊の海 | - | - | 夏は例年アジが釣れるのに、サバが多く、時には30cm以上のものが釣れた。 | |
相模湾 | 0 | 数日 | 相模湾では漁獲量が減少 | |
東京湾 | 60 | 1日 | 投網による漁獲がなかった。 | |
日本橋 | 68 | 2~3時間 | 日本橋では多くの魚が浮かび悶えていた。 | |
洲崎沖(千葉) | 35 | 2時間 | 東京湾口でプランクトンが海面に浮上した。 | |
–昆虫 | 山梨県 | 98 | 2~3ヶ月 | スズメバチがいなくなった。 |
地震光 | 本所(東京) | 73 | 3.5日 | 雷光のような火柱が30分間見られた。音は出なかった。光は西に向かって最も強くなり、まるで昼間であるかのようだった。 |
東京 | 68 | 1.5日 | 東京の空に音のない光がかなり長く続いた。 | |
小名浜(福島県) | 250 | 15時間 | 小名浜沖の西の空に明るい何かを見た。 | |
野島崎(千葉) | 5 | - | 猛烈な火柱が野島崎の南東方向に見られた。 | |
深川(東京) | 69 | 6時間 | 地震当日の朝、東京湾の方角に閃光が見えた。 | |
気象 | 品川(東京) | 60 | 12日 | 8月20日頃から、毎日朝10時から夕方まで雷鳴が聞こえた。雷光は観測されなかった。 |
房総半島(千葉) | 60 | 7日 | 海の底が非常に暗かった。 | |
本所(東京) | 73 | 6時間 | 空が赤く染まっていた。 |
政府の地震調査委員会の報告によると、相模トラフ沿いのM8クラスの地震の平均発生間隔は180年~590年とされています。この値は、歴地震や地質データ、測地データから総合的に推定されたものです。歴史地震をみると、1923年の関東大震災以前には、1703年の元禄関東地震、1293年の永仁関東地震が発生していたことが明らかにされています。また、1495年に明応関東地震が発生したという説もあります。古文書記録が少なく、研究が続けられていますが明応地震が相模トラフ巨大地震であれば、200~220年ごとに発生している可能性が高まります。
ただし、このような発生間隔はM8クラスの地震に対するものです。1855年に発生し、7,000人以上の死者が出たとされる安政江戸地震のようなM7クラスの地震に関しては、平均発生間隔は27.5年で、今後30年以内の発生確率は70%程度と推定されています。
井上一之(1925):震災予防調査会報告. 帝都大火災誌, 100, 135-184.
内閣府(2007):広報 ぼうさいNo.39,
諸井孝文・武村雅之(2002):関東地震(1923年9月1日)による木造住家被害データの整理と震度分布の推定. 日本地震工学会論文集, 2(3), 35-71.
諸井孝文・武村雅之(2004):関東地震(1923年9月1日)による被害要因別死者数の推定. 日本地震工学会論文集, 4(4), 21-45
T.Rikitake(1986):Preliminary Study on Precursors to the 1923 Great Kanto Earthquake of Magnitude 7.9, Proceedings of the Institute of Natural Sciences, 21, 3-19.
気象庁:「関東大震災から100年」特設サイト, URL: https://www.data.jma.go.jp/eqev/data/1923_09_01_kantoujishin/index.html
内閣府:「関東大震災100年」 特設ページ, URL: https://www.bousai.go.jp/kantou100/
地震調査研究推進本部(2014):相模トラフ沿いの地震活動の長期評価(第二版),URL: https://www.jishin.go.jp/evaluation/long_term_evaluation/subduction_fault/#sagami_t